写真作品集に関するレビューブログです。
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Robert Adams「A Portrait in Landscapes」
JUGEMテーマ:アート・デザイン
 



Robert Adams「A Portrait in Landscapes」
出版社:Nazraeli Press
出版年:2005



「Kerstin loves the forest and prairie and shore,which is part of my love for her.
When we are there,portraiture and landscape seem one;she shares nature's glory,and nature is warmed by her caring.」
本文扉文引用



robert adamsと言えば、人間によって破壊されていく自然を撮影し表現するスタイルの写真家です。
都市化が進む人間の世界に、静かに後退していく自然の世界がなんと描写していいのか分らないもの悲しさを見る者に印象付ける。
そういう意味では、この写真集はrobertの他の作品とは少し趣を異にするかもしれない。

この作品は、身近な自然の中でのポートレイトの写真集だが、とにかく優しく美しい。
robertの妻、kerstinをまだ豊かな自然の中で撮影しているのだが、彼女は見事に風景に溶け込んでいる。
また、ペットと思われる犬が彼女の傍に落ち着き花を添えている。
柔らかく焼かれた白黒写真の中で、まるで時が止まっているように、いや時を止めたいのかもしれない、自然の中で生に関わるそれぞれが根源的な生物としての存在を思い起こさせてくれる。

<何もない>野原、草原、海原。
唐突に挿入される、伐採された木々が、フレームを横切る電線が、彼女らとの分かち合いない距離を示しているように思える。いつから人間はそこに<何も>見出せなくなってしまったのだろう。
大きな眼鏡をかけ、まるで昆虫採集をするような装いで、彼女はそう語りかけているようだ。
人であるkerstinとペットの犬は、ただ優しく自然を見つめ愛でている。
時折、風景を写真に収め、書斎の机に向かっている彼女はきっと、小さく何かに抵抗しているのかもしれない。

写真の中では、彼女らは終わることを知らない。
夫であるrobertにとってもこの風景は永遠だったのかもしれない。
多様な愛が、アメリカから遠いこの日本に住む僕の目に映ることに感謝したい。
一生手元に、大切に置いておきたい作品の一つです。
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荒木 経惟「SUBWAY LOVE」



荒木 経惟「SUBWAY LOVE」
出版社:IBCパブリッシング株式会社
出版年:2005年
価格:3200円



随分とブログ更新が滞ってしまいました…。
これだけの分量でも、書くという行為の辛さを感じることが出来るくらいですから、何万字と連ねなければならない作家さんの大変さは計り知れません。
それでは、今回は大作家・荒木経惟の作品を取り上げたいと思います。

なぜ私がこの作品を取り上げようと思ったかと言うと、実はひとつのきっかけと問題提起があるのですが。
先日、仕事中に車を運転しているとラジオでこんなニュースを耳にしました。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110905-OYT1T00316.htm

簡単に言えば、男性が電車の車内で女性を撮影し逮捕されたわけです。
ただ、この事件でのポイントというのは女性の上半身を撮影し逮捕されたということですね。
人によっては「当然!」ともなるかもしれませんし「厳しすぎる」ともなるかもしれません。
ただどちらにしても、下半身を盗撮したという直接的なものでなくても、他人を撮影した行為だけでも十分に犯罪として認められるということが証明された事件という意味では重要な意味があるのではないかと思います。

写真撮影に伴うプライバシーの権利問題というのは今に始まった問題ではありません。
60年代後半の、森山・中平らいわゆるPROVOKEの世代の街撮りなんかでは、殆どプライバシー問題が除外されているのではないかとさえ思えるほど、街を行き交う人が撮影されています。
もっと以前からもスナップとしては一ジャンルを確立させていました。
そして、それらは作品として世に出て、ひとの目に触れるものとなっていたわけです。
このアラーキーの写真集もまさにそうです。
地下鉄の電車の中での人々がせきららに、それはまるで盗撮のようにかすめとられています。
撮影されていることに気づかずに、あまりに油断している人もいます・・・。笑
地下鉄の黒い背景の中で浮かび上がる人々の無防備な素の表情は、あまりに純粋で、見る者に見るという行為の快楽に目覚めさせるだけの威力がある。
ベタ焼きはその一連の撮影の流れの中において、人の表情がこうも瞬間的に変化していくのかということも気づかせてくれる。
若い荒木は鉄道警察に何度か連行されたりしながらも、その撮影行為を10年近く続けていたということからこのノーファインダーの撮影が荒木をいかに虜にしていたかが分かる。
(写真集の刊行はエヴァンズ「Many are called」を見て、「真似したと思われて、かっこ悪い」ということでナシになってしまうが。)





この写真集の発行自体2005年まで先になってしまいますが、撮影そのものは1963−72年に行われたもので、荒木自身は単純にその時代・作家背景も相まって「なんでも撮っちゃう」ジダイ、だったわけですね。
簡単に何でも撮っちゃうとは言っても、それが一番難しい。
そして、この作品としての質は徹底的な撮影量に裏打ちされていますね。
人が一方的に他人を見るという、ほぼ肉欲と呼べるのではないかとさえ思われるその欲望は、写真という技法を表現のフィールドに踏みとどまらせるひとつの特徴ではないかと思います。

ただ、時代は変わりすぎたのかもしれません。
今の時代、こうやってインターネットでいくらでも写真や情報が垂れ流されます。
匿名性ゆえに、ときに悪意のあるサイトも多く存在し、そこでは携帯カメラで無断撮影された若い女性の写真がアップされていたりします。
同じ次元で同じ写真を撮っていたとしても、これだけ環境が変わってしまえば、時代が変わってしまえば、議論の仕方も内容も同じものでは通用しなくなってしまったことは疑いないことだと思います。

「写真家は別だ、芸術は許される」と声を大にしていえる時代は過ぎ去ったのかもしれません。
撮影された人がネット上に自分の姿を見て、ましてそれが気持ちのいい使用のされ方をしていないとき、それでも写真家は人を、写真を守りきれるのだろうか。
私は、その覚悟がある者だけがこういった写真を撮ることを許されるのでないかと思う。
また、そのことを作品そのものが語り得る強度を持つか。
そして、時代は関係なく、当時の荒木が今いるとするなら躊躇いなくこういった写真を発表してくれているのではないかという期待もこめて。



−−−このブログ内容は随時加筆修正中です−−−



今回のブログで掲載されている写真は写真集のオリジナルに対してトリミングを行っております。
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津田 直「近づく Coming Closer」

津田 直「近づく Coming Closer」(増補版)
出版社:株式会社 赤々舎
出版年:2009年
価格:1,500円



文庫本サイズの写真集で、前半30頁ほどはカラー写真ですが、以降約200頁までは白黒写真という構成。
その白黒写真も、カラーフィルムで撮影したものを白黒調でプリントしたものということ。
増補版ということで2009年に再発表され、未発表作品と作家自身による言葉を新たに掲載したものになっています。(元々は2001年発表の津田の処女作です。)
加えて、頁におけるプリントサイズもバラバラで調度フィルムでいうハーフサイズくらいのものから中判、大判サイズくらいのものまで多様にあります。
その殆どは日本国内で撮影されたという風景写真。


文庫本サイズで価格も求めやすいからか、多くの書店で取り扱っているのを確認できる。
ただ、一見シンプルな作品でありながらも、作者の創作過程における探求の様がよく現れていて、飽きることなく見ることのできる作品だと思う。何度見ても、新たな風景が見えてくる。
導入部でのカラー写真が後半には白黒の写真で、淡いプリントで(カラーからのプリントだからだろうか)再度白日に晒される。
後半の白黒写真はカラーの残像を残しながらも、まるで別の景色をみているような印象を再構築していく。
色のついた風景が与えた印象は、白黒になったときにはまた違った印象を付帯してやってくる。
津田の提示する思索の小波から、小波を立てる風の存在を知らされる。


170頁目から20頁ほどは津田の言葉が並ぶ。
―――――――――

「近づく」=ときどき俯瞰すること

―――――――――

ときどきという言葉に近づきすぎてはいけないことがあることを知っている、本来は近づけない風景に対する畏敬の念が込められているのではないかと思う。
ただ、津田の「撮ることは世界を翻訳すること」という理念からもうかがえるのだが、翻訳不能な世界を写真に収めて、その世界に近づくこと、本やプリントという形になったときはじめてそれは少しだけ世界に近づいたことを意味しているのかもしれない。
俯瞰はしているが(それは空撮という方法論からだけでなく)それはその風景を客観視し、突き放した一風景としては捉えていない。
津田にとってその方法は写真を撮るという行為だけに限らない。
20頁近くにも及ぶ津田による詩は、撮影した風景を翻訳しようとする。
執拗に、掴みきれないそれらに近づこうとしているかのように。
そして、見ずに通過されてしまったすべての風景に名前を付けることも、同じように。


―――――――――

「Yellow」

二つのYellowは一日中ただ風に吹かれている
そのことを知っているのは人間ではない 風景である
その一つは湖面に打ち立てられたフラッグ
もう一つは水蒸気の昇る噴出口に溜まった硫黄の色である


それは同時に距離でもある


人間には目に見える世界へ名前を与えてきた歴史がある
しかし見えない世界に付けられた名前は未だに少ない
だから見えない世界は音として呼ばれることは少ない


風を音だけでは見ないように


2003年2月14日
僕は湖の上を歩いていた
足元は石の様に固く凍りつき湖が光っていた
地図は無かった

―――――――――




津田の作品を見るとき、その行為はひとりの思想家の文脈を読む、その生き様や思考の生みの苦しみを読むという行為を課せられているようで、私に純粋な作家の人生に対峙させてもらっているようなすごく楽しい時間を享受させてくれる。
接近したり、距離をとったり、コミュニケートするということはそういうことなのかもしれませんね。


以下、津田 直 公式HPです。
blogページの津田さんの言葉に本人の人柄が垣間見える気がします。(会ったこともないですが笑)
http://www.tsudanao.com/

出版元の赤々舎のHPです。
http://www.akaaka.com/publishing/books/tsuda-chikazuku.html

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今井 智己「真昼」





今井 智己「真昼」
出版社:青幻社
価格:3,100円
出版年:2001年



「ルネサンス以降ひたすら芸術家によって編み出されてきたイメージは、個々の作家の言わば世界にたいする認識を示してきたと同時に、それは、徹底した世界の人間化の行為でもあった。」
天野 太郎による解説「漂白する眼差し」



最初は「吃音」というタイトル案だったという。青幻社社長の進言で「真昼」というタイトルで採用された。
吃音(きつおん)とは、一般に言われる<どもり>で、第一音が円滑に出ずに、アアアなどと同じ音が繰り返し出てしまったりする言語障害です。
吃音は「音」に関わるイメージであることから、単純に考えて写真という視覚表現とは非なるものでしょう。
ただ、当然のことのようですが、写真にも「音」を喚起させられるものは多く存在します。張り詰めた空気感から小さな音を感じるものもあれば、都会の雑踏の写真から轟音が、想起させられることなどは多々あります。
少なくとも、「真昼」か「吃音」、タイトルの選択が受け手側の写真の捉え方に与える影響は少なくないことは言えると思います。

「真昼」とは、陽の光が差しこみ、存在するものが剥き出しの姿に洗われる、時間帯。
ただ人は真昼だからと言って、それら景色を見ることができているとは限らないだろう。
見るということは人間の特権、能力ですらあるとまるで幻想のように信じられている気がするが、実は見るという行為は世界に委ねられているのではないか。人の眼はまさしく節穴で、思考や経験が純粋な視界を阻害しているのではないか。
それは「真昼」と名づけられたこの作品に登場する夜の‘場面’が人工的に作り出された光の中であったとはいえ−真昼のあの生々しい姿ではなくとも−光を照り返し、景色が光景として、その生身の姿を見る人に気づかせようとしているように思える。
そこに写真の可能性があるのではないか。
写すときには見ていなくても、写真になったときに見ることができる。世界を本当は直接見ることなどできず、紙やデータを媒体としてはじめて見ることができる(を許されている)のではないかとさえ。
その時はじめて、見たという行為が発生するのではないか。
少なくとも人は、自分が思っている以上に世界を見ていない。見ているということ自体がそもそも盲信ではないか。

真昼も真夜中もその対象は同じように表出している。
ただ、人の目がそれを捉えきれることはない。
真昼がその山肌を、フィルムの粒子まで意識させるほど見せたとして、真夜中も同じなのである。
世界(という他、言葉が見当たらないが)はそこに存在し続けている。
元来剥き出しのはずのものを、人の目がそこに見えない布をかけている。
写真はその布を剥いで、再び剥き出しの姿に戻しているのではないだろうか。
今井によって撮影されたイメージの連なりは見事にその<解体>を遂行しているように思われる。

そして、「吃音」ではなく「真昼」という単純な対比の言葉によってしか、人は提示されたイメージを作家の思惑・思考とリンクさせることが出来ない。
作品タイトルの重要性、言葉と写真の関係性を考えさせられる傑作だと思います。


http://www.imaitomoki.com/home/
今井 智己公式HP
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佐々木 敦『「批評」とは何か?』 x-1
 http://head-phone.in/?pid=12322161


今回は「批評」そのものにスポットライトを当てたいと思います。
このブログの方向性も少し指し示しながら。


佐々木 敦「「批評」とは何か?」
発行所:メディア総合研究所
価格:1,600円
出版年:2008年



この書籍は批評家である佐々木敦主催のカルチャースクールBRAINZのレクチャーを文字に興し、1冊の本に纏めたものです。
ただ佐々木の「プロになるためにみたいなノウハウを教えるつもりはない」という言葉からも分かる通りに、いわゆる食っていくためにだとか、文章構成の方法論みたいなことを紹介するものではなく、「そもそも批評とは何か?」という概念分析に依って、特に本書第1章には収録がなされています。
その第1章を材料に佐々木の思想をなぞりながら、記録に残しておきたいと思います。

佐々木敦は広義の意味での批評の種類には「紹介」「感想」「分析」「展開」など(の役割・程度)があると述べています。そのどこからが「批評」にあたるかなどに関して、例えば「紹介」「感想」は批評ではないだとか、「展開」の先に「批評」があるなど、批評という一つの言葉を巡っても多様にその解釈が存在していると説明しています。世間一般でも一概にその概念は多様に捉えられていますが、専門家の了見でもそうだと言えます。
また、対象が外部=他者に向けて行われるということを想定するとき、対象は1まだその作品を見たことがない人 2既にその作品を見たことがある人という二分化がなされると思われる。明らかに両者は性質の違うもので批評を行う際にも、その内容を大きく左右する重要な要素だと言えると思います。
一般的に「批評」はその対象作品を既知としている他者を想定していると思われるかと思われますが、私の場合将来このブログを作品購入のきっかけとしてのアーカイブスとして機能させることを前提として立ち上げたブログなので、当然作品未見の人も対象として論を展開したいと考えています。紹介も兼ねた批評ページとしての役割を果たしたいと思ってるということです。
この次の話に繋がるのですが、作品そのものと密接にリンクしながらも、文章として自立している、読み物として読み手に興味を持たせながら、作品を既知の人にも楽しんでもらえるような、そういうことは決して不可能ではないと思うんですよね。
すいません、個人的な方向性の話でしたが。

佐々木は本書で簡単に言えば、批評がそれだけで自律し、十分にして一己の「作品」として成り立つと語っています。また、そうあるべきだとも。
ただ、だからと言って「対象−受け手」が繋がらないのはどうかと。
これはつまり、上記で私が説明していることと関連してくるのですが、対象はどうでもよくて、批評だけで完結してしまうという危険性があるということではないでしょうか。
批評がある特定の作品を対象として構成されるのに、その作品を抜きにして自律しているのはそもそも本当の自律なのだろうか。それはワタシの作品ではあるかもしれないが、それでよいのか。
佐々木は「田中宗一郎のレディオヘッドを褒めている俺を見ろ」という言葉を発しているように、批評家の自己主張に否定的な考えを持っている。
勿論、自己を出さずに自分の好みの反映されない批評を展開しようとすればそれこそ数字や作家の背景など客観的な事実のみに依拠した至極つまらない批評になってしまうとは思うのですが。
つまり、そんな批評は存在し得ないのかもしれない。
佐々木は「三すくみ(対象−批評−受け手)にはやっぱり緊密な関係性があって欲しい。そのどこかがなくなっちゃったら、何のことやらわからんよっていう風に僕は結構思っているのです。」と括っています。
じゃあ、批評って何ぞよって話しになる。
それを佐々木は次の「相対評価について」で説明しています。
結局は「良い悪いっていうことを扱うのが批評だっていう風には僕は思わないんです。良い悪いは批評とは別にあるもので、それは誰にとってもある。自分にとっての良い悪いというものを、どう咀嚼し吟味するかっていうことは重要だけれども・・・略」ただ、そのことも一見相反するようですが、作品の良し悪しなど判断できないといっているということではない。
間違いなく良し悪し、その間のグレーゾーン含めて存在はする。ただ、そのことが批評の評価基準となるわけではないということを言っているわけではないんですね。その先に何かがあると佐々木は言っている。

その先、と言うか個人的にはその内、構成に近い印象を受けるのですが。
私はそれは作家の主張を出来る限り読むということと、作家も気づかなかったことを(無理やりに秩序立てて、ではなく)見つけ出すということ、そして受け手に新たな視野を開くこと、それが批評の出来ること、やれることのパターンじゃないかと思うのです。
その為には、必ずしも批評の自律性(それは作品としてでも良いのですが)は不可欠だとも思うのです。

今回は佐々木敦の批評とは何か、その根本的問いかけから考えてみることが出来ました。
また、高橋源一郎問題から見る作家と批評家の関係。作品上位??主義に関して考えてみたいと思います。
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